此(こ)の法門(ほうもん)を申(もう)すには必(かなら)ず魔(ま)出来(しゅったい)すべし。魔(ま)競(きそ)はずば正法(しょうぼう)と知(し)るべからず。第(だい)五(ご)の巻(まき)に云(い)はく「行(ぎょう)解(げ)既(すで)に勤(つと)めぬれば三(さん)障(しょう)四(し)魔(ま)紛然(ふんぜん)として競(きそ)ひ起(お)こる、乃(ない)至(し)随(したが)ふべからず畏(おそ)るべからず。之(これ)に随(したが)へば将(まさ)に人(ひと)をして悪道(あくどう)に向(む)かはしむ、之(これ)を畏(おそ)れば正(しょう)法(ぼう)を修(しゅう)することを妨(さまた)ぐ」等云云(とううんぬん)。此(こ)の釈(しゃく)は日蓮(にちれん)が身(み)に当(あ)たるのみならず、門(もん)家(か)の明鏡(みょうきょう)なり。謹(つつし)んで習(なら)ひ伝(つた)へて未(み)来(らい)の資(し)糧(りょう)とせよ。