Nichiren Shoshu

Myoshinji Temple

8月度御講原稿

元品の無明と妙法の利剣について

「元品」とは根本のことを意味し、一切のもとたる元初のことであります。「無明」とは、明るくないことであり、一切の暗い迷いのことであります。

つまり「元品の無明」とは、衆生の一切の迷いの根本であります。これを根本無明ともいい、また無始無明とも言われます。これは、私たちの生命に本然的に具わった根本的な煩悩の迷いのことを言うのであります。

 故に、私たちがこの迷いを自覚することさえとても難しく、ましてこれを打破することは安易にできるものではありません。

今日はこの元品の無明をどうやって断ち切っていけるかということを、釈尊の仏教の教えの上から、次に日蓮大聖人の御書の上から、そして御法主上人猊下の御指南の上から拝していきたいと思います。

先ず、煩悩とは一切衆生の生命に具わっている欲望や様々な妄念のことであります。その数は八万四千とも言われ、成仏得道する上で一番の障害となります。天台大師は、仏道修行を妨げる三つの煩悩を、見思惑、塵沙惑、無明惑と説いています。

又、円教の教えでは菩薩が断じていく四十二位の教えの中で最後に断じる無明惑を元品の無明と説いています。

『兄弟抄』には、

設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入って、法華経と申す  妙覚の功徳を障(ささ)へ候なり。何に況んや其の已下の人々にをいてをや  (御書980)

と四十一位まで昇りつめた菩薩に対して、元品の無明は大悪鬼となって菩薩の心身に入り込み、仏の位になるのを妨げるのであります。故に、それ以外の人々が元品の無明を断じ切るというのは、とても至難な事であると仰せであります。

元品の無明は煩悩の最たるものでありますが、他にはどのように説かれているのでしょうか。『祈祷抄』には、

元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入りて、仏をあだみて説か  せまいらせじとせしなり。所謂波瑠璃王の五百人の釈子を殺し、鴦掘魔羅が  仏を追ひ、提婆が大石を放ち、旃遮婆羅門女が鉢を腹にふせて仏の御子と云  ひし、婆羅門城には仏を入れ奉る者は五百両の金をひきゝ。されば道にはう  ばらをたて、井には糞を入れ、門にはさかむぎをひけり、食には毒を入れし、  皆是仏をにくむ故に。 (御書624)

と、元品の無明は第六天の魔王となって、一切衆生の身に入って、あらゆる働きをして、仏を謗り、あだみ、害すると仰せであり、釈尊が様々な迫害を受けたことが説かれております。

第六天の魔王とは、他化自在天王(たけじざいてんのう)のことで、仏道修行する者を妨害し、生気を奪うこと、功徳を奪うことを仕事としております。

『兄弟抄』には、

此の世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属  なり (御書980)

と仰せであります。日蓮大聖人を殺害しようとしながら、世間には生き仏のように思わせた極楽寺良観や、権力にまかせ、日蓮大聖人を迫害した平左衛門尉等は、正しく第六天の魔王が身にいり代わった魔の所業であると言えましょう。

私たちが世間一般的に言って良い人と思っても、正法を謗る人々はやはり第六天の魔王の眷属と言えます。私たちが一生懸命信心をして幸せになろうと、努力すればする程、障害が競い起こってくるのは、私たちが魔の眷属から仏になろうとするから、魔は逆にそれを阻もうとするのであります。

『御講聞書』には、

疑の字は元品の無明の事なり  (御書1829)

とありまた、

『御義口伝』には、

五千の上慢は元品の無明なり  (御書1732)

とご教示であります。釈尊が法華経を説く時、四十余年未顕真実の言葉に疑いを起こした五千人の慢心の人々は、座を退いて法華経を聴聞することはありませんでした。このように疑いを持つということは、成仏の直道から離れ、退転することなのであります。

 次に、無明を切る利剣について述べてみたいと思います。日蓮大聖人は、

『諸経と法華経と難易の事』に、

生死の長夜を照す大灯、元品の無明を切る利剣は此の法門には過ぎざるか (御書1468)

と仰せであります。「此の法門」とは、法華経のことで、法華経の本門寿量文底の事の一念三千の南無妙法蓮華経が暗夜を照らす大灯であり、元品の無明を切る利剣であります。

そして『御講聞書』には、

元品の無明の大良薬は南無妙法蓮華経なり   (御書1848)

と仰せの如く、日蓮大聖人を信じ、お題目を唱えることが、元品の無明の迷いを破る大良薬なのであります。

また、『当体義抄』に

一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷ひと成り、善縁に遇へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、迷ひは即ち無明なり(御書692)

と仰せであります。善縁とは正法たる御本尊様を信じることで、悪縁とは邪法たる謗法に縁することであります。信心をしていても、貪・瞋・癡の三毒強盛な命と慢心の命が芽生えやすく、元品の無明の煩悩の火は滅し難いのであります。

また、一歩踏み込んで本宗の信心の上から言うならば、善縁とは、ただ入信の形だけに留まらず、妙法の利剣の根本たる本門戒壇の大御本尊様のもとに参詣し、血脈付法の御法主上人猊下の御指南を根本として、そのまま自行化他の信心を実践することなのであります。

 御法主日如上人猊下は元品の無明について、

『御義口伝』には、
一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり。  此の信の字は元品(がんぽん)の無明(むみよう)を切る所の利剣なり。其の故  は、信は無疑曰信とて疑惑を断(だん)破(ぱ)する利剣なり (御書1737)

 

と仰せられ、同じく『御義口伝』には、
此の本法を受持するは信の一字なり。元品の無明を対治する利剣は信の一字  なり。無疑曰信の釈之(これ)を思ふべし云云       (御書1764)

 

と仰せられているのであります。すなわち、御本尊に対する絶対信こそ、元  品の無明、すなわち衆生の心の奥に巣食う根本の迷いを対治する利剣である  と仰せられているのであります。

 

だが、ここで問題となりますのは、『大乗起信論義記』に、
信有って行無きは即ち信堅(かた)からず、行を去るの信は縁に遇っては便(す  なわ)ち退す                     (六巻抄 71)

 

と仰せられているように、信心とは、信行具足の信心でなければならないと  いうことであります。(中略)折伏においても同様でありまして、折伏も実際  に行動を起こさなければ、折伏したことにはならないのであります。掛け声  だけの折伏ではなくして、折伏を行じ、折伏を体験し、折伏を実践するとこ  ろに意義があり、そこに初めて大御本尊の広大無辺なる功徳を享受すること  ができるのであります。 (平成20年5月4日 広布唱題会の砌)

と仰せであります。

元品の無明を切る利剣とは、疑いのない無疑曰信の信心であり、その信心は信と行、つまり御本尊様を心より信じ、勤行唱題に励んで、その功徳をもって折伏を実践することであると御指南されております。

私たちは、無疑曰信の信心をもって、自己の元品の無明を断ち切り、御法主日如上人猊下の御指南の通り、5年後の2015年までに法華講員50パーセント増を目指し、僧俗一致して唱題折伏に邁進していきましょう。